或る独りのろまんてぃすと

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S(少し)F(不思議)藤子・F・不二雄短編マンガの世界~『流血鬼』

リチャード・マシスン作『アイ・アム・レジェンド』(かつての邦題『吸血鬼』『地球最後の男』)は、1964年にヴィンセント・プライス主演で『地球最後の男』、1971年にチャールトン・ヘストン主演で『地球最後の男 オメガマン』、2007年にウィル・スミス主演で『アイ・アム・レジェンド』と、3度も映画化されている、不朽の名作SFである。

藤子・F・不二雄短編作『流血鬼』は、その『アイ・アム・レジェンド』を下敷きにして書かれた作品であろう。

冒頭から、主人公の少年が木の杭を寝てる人に突き刺して、血が飛び散るスプラッタ描写と、なかなかのインパクト。

スプラッタ描写なら、『モジャ公』にもあるんだけどね、その時はわたしはモジャ公読んでないし、藤子先生こんなのも描くんだ、とちょっと驚いた。

ルーマニアから発生した、感染すると人間が吸血鬼に変わるマチスン・ウイルス(マシスンに対するオマージュを捧げたネーミングであろう)により、人類は滅亡の一途を辿っていた。感染を逃れた主人公とその親友は、吸血鬼を殺害しながら生き延び、人類再興への希望を願っていた。しかし親友が吸血鬼たちに捕らえられ、逃げ延びた主人公の前に、すでに吸血鬼と化した主人公のガールフレンドが現れて、自分たちこそ新人類であり、抵抗する人類は新人類を殺し続けるいわば「流血鬼」である、と主人公に降伏するよう説得するが…

人類側から見れば、血を吸って人を殺す(ように見える)新人類は、残酷行為を行う怪物だが、新人類にとっては、杭を打ち込んで殺す(新人類はその程度では実は死なないが)人類はやはり残酷行為を行う存在である。つまり片方の視点が正当であっても、もう片方の視点ではそうではないという価値観の相違、またそれがどんな手段であっても、自分たちが正当と考えるなら、それは許容されるという考え方に対する疑問が、本作のテーマだと、わたしには思える。

だから、ラストシーンは、ハッピーエンドとしても、バッドエンドとしてもとれるんだよね。

藤子・F・不二雄少年SF短編集 (2) (小学館コロコロ文庫)

藤子・F・不二雄少年SF短編集 (2) (小学館コロコロ文庫)

 

 

 

 

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